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【全リスト】日本に来た歴代パンダの名前と歴史を総まとめ

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【全リスト】日本に来た歴代パンダの名前と歴史を総まとめ

日本には、これまで数多くのジャイアントパンダが来日し、その愛くるしい姿でたくさんの人々に愛され、社会現象を巻き起こしてきました。

その歴史は、主に東京の恩賜上野動物園、和歌山のアドベンチャーワールド、そして神戸市立王子動物園という3つの施設で、世代を超えて紡がれています。

この記事では、日本にやってきた歴代のパンダたちの名前と、それぞれが持つユニークな物語、そして日本のパンダ史における功績を、詳しく見ていきましょう。

 

一目でわかる!日本にやってきた歴代パンダの全頭リスト(時系列順)

日本のパンダ史を振り返ると、その歴史は非常に豊かです。

これまでに上野動物園、和歌山アドベンチャーワールド、神戸市立王子動物園の3つの施設で、合計37頭ものパンダが飼育されてきました。

この驚くべき頭数は、日本のパンダ飼育と繁殖研究への深い関与を示しています。

内訳を見ると、上野動物園で14頭、和歌山アドベンチャーワールドで最多の20頭、そして神戸市立王子動物園で3頭が、それぞれの地で歴史を刻みました。

日本のパンダの物語は、1972年の最初の来日から始まりました。

それ以来、多くのパンダが日本国内で誕生し、また中国から共同研究のためにやってきました。

上野動物園では「カンカン」のようにカタカナで繰り返す名前が伝統となり、一方でアドベンチャーワールドでは白浜町にちなんだ「〇浜」という名前の「浜家」が大家族を築くなど、動物園ごとに特色ある命名がなされてきたのも興味深い点です。

それぞれのパンダには名前と個性豊かな物語があり、日本のパンダ史を彩るかけがえのない存在となっています。

 

【上野動物園】の歴代パンダ一覧と功績

日本のパンダ史の中心地ともいえる上野動物園。

その歴史は、1972年に日中国交正常化の象徴として来園したオスの「カンカン」とメスの「ランラン」から輝かしく始まります。

カンカンはやんちゃな性格で、運動場に吊るされたタイヤで遊ぶのが大好きだったと記録されています。

一方、ランランは「丸顔美人」と称されるほどの美しいパンダとして国民的人気を博しましたが、残念ながら1979年にこの世を去りました。

そのランランの後を追うかのように、カンカンも翌1980年に死亡し、日本中に悲しみが広がりました。

しかし、パンダの物語は続きます。

1980年にはメスの「ホァンホァン」、1982年にはオスの「フェイフェイ」が来園。ホァンホァンは何度も出産を経験し、子育ての腕を上げたたくましい母パンダとして知られています。

フェイフェイは、来園したその夜から落ち着いて餌を食べ続けるなど、大人の風格を持つパンダでした。

この2頭の間には、待望の日本生まれの赤ちゃんが誕生します。

1985年に生まれたオスの「チュチュ」は、日本でのパンダ出産第1号という歴史的な存在でしたが、わずか43時間で亡くなるという短い命でした。

しかし、この経験は日本のパンダ繁殖における大きな一歩となりました。

翌1986年には木登りが大好きなおてんば娘のメス「トントン」が、1988年にはおっとりした性格のオス「ユウユウ」が生まれ、元気に育ちました。

その後も、1992年に来園したオスの「リンリン」は、前足の甲にリンゴを乗せて器用に食べる姿で人々を魅了しました。また、繁殖のためにメキシコを3往復した経験から、「世界一飛行機に乗ったパンダ」とも言われています。

2003年から2年間滞在したメスの「シュアンシュアン」は、陽気で豪快な性格で、後ろ足で立って壁を伝い歩きする得意技を持っていました。

そして2011年、現在のパンダファミリーの礎となるオスの「リーリー」(名前は「活発で力持ち」の意)とメスの「シンシン」(名前は「純真、天真爛漫」の意)が来園。

2頭の間には、2012年に名前のないまま亡くなった悲しみを乗り越え、2017年に絶大な人気を博したメスの「シャンシャン」(名前は「花開く明るいイメージ」から)、そして2021年に生まれた双子のオス「シャオシャオ」とメス「レイレイ」が誕生し、今日に至るまで多くの人々に感動と喜びを与え続けています。

 

【アドベンチャーワールド(白浜)】の歴代パンダ一覧と「浜家」の歴史

和歌山県白浜町にあるアドベンチャーワールドは、日本で、そして世界でも有数のパンダの繁殖に成功している施設として知られています。

ここで暮らすパンダファミリーは、その所在地の白浜町にちなんで「浜家(はまけ)」という愛情のこもった愛称で親しまれ、一大ブランドを築いています。

その輝かしい歴史は1994年に来園したメスの「蓉浜(ようひん)」とオスの「永明(えいめい)」から始まります。特に永明は、2000年に来園したメスの「梅梅(めいめい)」との間に6頭の子をもうけ、さらにアドベンチャーワールドで生まれたメスの「良浜(らうひん)」との間にも10頭の子どもをもうけました。

合計16頭もの子どもの父親となった永明は、まさに「ビッグダディ」として、その功績は計り知れません。

アドベンチャーワールドでは、梅梅と永明の子どもである「雄浜(ゆうひん)」「隆浜(りゅうひん)」「秋浜(しゅうひん)」「幸浜(こうひん)」、そして双子の「愛浜(あいひん)」「明浜(めいひん)」が次々と誕生しました。

さらに特筆すべきは、良浜の存在です。

彼女は日本で生まれたパンダとして初めて出産を経験し、それ以降も7回の出産で「梅浜(めいひん)」「永浜(えいひん)」「海浜(かいひん)」「陽浜(ようひん)」「優浜(ゆうひん)」、双子の「桜浜(おうひん)」「桃浜(とうひん)」、そして「結浜(ゆいひん)」「彩浜(さいひん)」「楓浜(ふうひん)」という合計10頭の子どもを産み育てた「スーパーお母さん」です。

この施設で生まれたパンダは合計17頭にのぼり、この驚異的な繁殖実績は中国国外の施設では世界一を誇ります。

しかし、2025年6月28日、中国とのパンダ保護共同プロジェクトの契約期間満了に伴い、「浜家」の最後の4頭(良浜、結浜、彩浜、楓浜)も中国へ返還されることとなり、日本のパンダ史における一つの大きな時代が幕を閉じました。

最終公開日となった27日には、開園前から約1400人ものファンが列を作り、別れを惜しみました。

愛知県から訪れた石濵さんは「笑顔で送り出そうと思っていたが、寂しさが勝ってしまった」と涙を流し、地元白浜町の明神さんは「パンダたちが戻ってくることを信じている」と語るなど、多くの人々に愛された「浜家」の旅立ちは、大きな感動と共に記憶されることとなりました。

 

【神戸市立王子動物園】の歴代パンダと現在

神戸市立王子動物園では、これまで3頭のパンダが市民に愛されてきました。

その歴史は、阪神淡路大震災からの復興のシンボルとして、2000年に来園したメスの「旦旦(タンタン)」とオスの初代「興興(コウコウ)」から始まります。旦旦の名前には「新しい世紀(21世紀)の幕開け」という希望が、そして興興の名前には震災からの「復興」への強い願いが込められており、多くの市民にとって特別な存在でした。

しかし、初代の興興は後にメスであることが判明するという珍しい出来事があり、2002年に中国へ返還されました。

その後、同名の2代目「興興」が来園しましたが、残念ながら亡くなっています。

現在、王子動物園で暮らすタンタンは、来園から長い年月が経ち、その愛らしい姿で多くの人々を癒してきましたが、近年は高齢のため体調管理が優先され、観覧は中止されています。

 

日本のパンダ史:最初のパンダはいつ来た?どんな背景があった?

日本におけるパンダの歴史は、単なる動物園での飼育記録という枠をはるかに超え、国際関係やその時々の社会の動きと深く結びついてきました。

最初のパンダがどのようにして日本へやってきたのか、その感動的な背景と、時代と共に変化してきたルールを紐解いていきましょう。

 

すべての始まりは1972年!カンカンとランラン来日の衝撃

日本に初めてジャイアントパンダがやってきたのは、歴史的な日である1972年10月28日のことです。

この年、長年の懸案であった日中国交正常化が実現し、その友好の証として中国からオスの「カンカン」とメスの「ランラン」が日本に贈与されました。

このニュースは日本中を駆け巡り、空前の「パンダフィーバー」を巻き起こしました。

上野動物園にはパンダを一目見ようと連日長蛇の列ができ、その愛くるしい姿はテレビや新聞で大きく報じられました。

カンカンとランランは、新しい時代の幕開けを告げる平和と日中友好の象徴として、多くの人々の心に深く、そして温かく刻まれました。

しかし、出産への期待が高まる中、ランランは1979年に妊娠中毒が原因の腎不全で亡くなり、まるでその後を追うかのように、カンカンも翌1980年に死亡するという悲しい結末を迎えました。

 

なぜパンダは中国から「借りている」の?知っておきたい所有権のルール

最初のカンカンとランランは「贈与」という形でしたが、それ以降に来日したパンダはすべて中国からの「貸与」、つまりレンタルという形式をとっています。

この変化の背景には、ジャイアントパンダが絶滅の危機に瀕する希少動物として「ワシントン条約」で国際的な商取引が厳しく禁止されたことがあります。

そのため、現在は単なる展示ではなく、種の保存を目的とした「日中共同繁殖研究」という形で、海外の動物園に貸し出されているのです。

このルールにより、たとえ海外の動物園でパンダの赤ちゃんが生まれても、その所有権はすべて中国が保持することになります。

日本側が中国に支払うレンタル料は、一般的に「パンダ保全協力費」と呼ばれ、つがい1組あたり年間約1億円にもなるといわれています。

この費用は、中国国内での野生パンダの保護活動や、彼らが生息する森林の環境保全のために大切に使われています。

日本で生まれたパンダたちが一定の年齢に達すると中国へ返還されるのは、この所有権のルールに加え、世界的な視野で最適なペアリングを行い、種の遺伝的な多様性を維持するという、極めて重要な繁殖計画の一環なのです。

 

歴代パンダフィーバー!日本中が熱狂した瞬間を振り返る

1972年の最初の来日時から今日に至るまで、パンダは常に日本社会に大きな経済効果と、心を和ませる明るい話題を提供し続けてきました。

その影響力は計り知れません。近年では、上野動物園で双子の「シャオシャオ」「レイレイ」が誕生し、一般公開されてからわずか1年間で、東京都にもたらした経済効果はなんと約308億円にものぼると試算されています。

高額なレンタル料を考慮しても、パンダがもたらす経済的な恩恵や社会的な価値はそれをはるかに上回ります。

新しい赤ちゃんが誕生するニュースや、その名前を一般から公募するイベントは、毎回国民的な関心事となります。

多くの人々が名付け親になろうと応募し、選考過程を見守ることで、パンダへの愛情と一体感が育まれてきました。

メディアもこぞってその成長ぶりを追い、日本中がその一挙手一投足を見守るという熱狂は、今も昔も変わることなく続いています。

 

【家系図で見る】上野と白浜の歴代パンダファミリーの関係性

日本の動物園で生まれたパンダたちは、それぞれが血のつながりを持つ大きな家族、すなわち「ファミリー」を形成しています。

ここでは、日本の二大パンダファミリーである上野動物園とアドベンチャーワールドの「浜家」の関係性を、家系図をたどるように詳しく見ていきましょう。

 

上野動物園のパンダ家系図|シャンシャン一家の関係性は?

上野動物園では、時代を代表する二つの大きなファミリーが歴史を築き上げてきました。

最初のファミリーは、父「フェイフェイ」と母「ホァンホァン」を中心とする一家です。

この素晴らしいペアからは、1985年に日本初の赤ちゃん「チュチュ」、1986年には木登りが大好きなおてんば娘だった「トントン」、そして1988年にはおっとりした性格で後に日中親善の役目を担って北京へ渡った「ユウユウ」という、3頭の子どもたちが生まれました。

そして、その歴史を受け継ぎ、現在へと続くのが父「リーリー」と母「シンシン」のファミリーです。

2012年に生まれた最初の子どもは生後数日で亡くなるという悲しい出来事がありましたが、日本中がその悲しみを分かち合いました。

その経験を乗り越え、2017年には多くの人から熱狂的に愛された「シャンシャン」が誕生。

その成長は国民的な関心事となりました。さらに2021年には待望の双子、「シャオシャオ」「レイレイ」が生まれ、現在も上野動物園で元気に暮らしています。

シャンシャンは、リーリーとシンシンの大切な長女であり、シャオシャオとレイレイの優しいお姉さんにあたります。

 

アドベンチャーワールド「浜家」の大家族!繁殖成功の秘密とは?

アドベンチャーワールドの「浜家」は、その規模と繁殖実績において、世界的に見ても非常に稀有なパンダファミリーです。

その繁殖成功の秘密は、特定のパンダたちが持つ驚異的な繁殖能力と、施設の卓越した飼育技術にあります。

その中心となったのが、オスの「永明」とメスの「良浜」という伝説的なペアです。

永明は、メスの「梅梅」との間に6頭、そして良浜との間に10頭、合計で16頭もの子どもの父親となりました。

一方の良浜も、日本生まれのパンダとして初めて母となり、7回の出産で10頭の赤ちゃんをすべて無事に産み育てた非常に優れた母親です。

アドベンチャーワールドは、この永明と良浜という素晴らしいペアの存在によって、中国国外では世界最多となる17頭のパンダの誕生という、歴史的な偉業を成し遂げました。

この愛情あふれる大家族の物語こそが、アドベンチャーワールドがパンダの繁殖研究において世界的な評価を得ている最大の理由と言えるでしょう。

2025年6月の最後の4頭の返還は、この輝かしい歴史に一つの区切りをつけましたが、「浜家」が残した功績は永遠に語り継がれます。

 

今、日本で会えるパンダはどこにいる?最新情報まとめ

2025年6月28日をもって、和歌山アドベンチャーワールドのパンダ全頭が中国へ返還されたため、現在、日本でジャイアントパンダに会える動物園は東京都の恩賜上野動物園1か所のみとなりました。

日本で暮らすパンダは合計4頭です。

上野動物園には、マイペースでおっとりとした父の「リーリー」、自由奔放で食いしん坊な母の「シンシン」、そしてその間に生まれた元気いっぱいの双子、オスの「シャオシャオ」とメスの「レイレイ」の4頭がいます。

日本のパンダたちに会うためには、上野動物園を訪れる必要があります。

なお、神戸市立王子動物園の「タンタン」は存命ですが、高齢のため体調管理が優先され、観覧は中止されています。

 

歴代パンダの気になるQ&A|人気の秘密から意外な強さまで

ここでは、多くの人々が抱く、歴代パンダに関する素朴な疑問や興味深いトピックについて、Q&A形式で分かりやすく答えていきます。

その愛らしい姿の裏に隠された、意外な事実や驚きの生態に迫ります。

 

Q. そもそもパンダはなぜこんなに人気があるの?

パンダがこれほどまでに絶大な人気を集める理由の一つは、その愛らしいルックスと独特の仕草にあると言えるでしょう。

大きな目、丸い顔、ずんぐりとした体型は、人間の母性本能や保護欲をくすぐる「ベビースキーマ」と呼ばれる特徴を持っており、多くの人が無条件に「かわいい」と感じてしまいます。また、日本でパンダに会える場所がごく限られているという希少性も、その価値を高め、人気を後押ししている大きな要因です。

さらに、パンダは単なる動物ではなく、日中友好の象徴という特別な文化的背景を持っています。

その経済効果は絶大で、新しい家族が生まれるたびに紡がれる心温まる物語も、他の動物にはない特別な魅力を与えています。

 

Q. 「パンダは実は強い」って本当?クマとしての生態を解説

パンダはそののんびりとした愛らしいイメージから、おとなしい動物だと思われがちですが、生物学的な分類上は食肉目クマ科に属する、正真正銘のクマの一種です。

日本のツキノワグマと比較した場合、どちらが強いかは個体の大きさなどにもよりますが、一般的にはツキノワクマの方が戦闘的である可能性が指摘されています。

しかし、パンダもクマとしての身体能力を備えており、決して弱い動物ではありません。

主食は低カロリーな竹ですが、実は彼らの消化器系は肉食動物に近い構造をしています。

そのため、動物園では栄養を補うために、小麦粉や卵で作られた特製のパンダ団子や、リンゴ、ニンジンなども与えられています。

時にはセミなどの昆虫を捕まえて食べることもあり、雑食性の一面も持っています。

 

Q. 歴代で一番長生きしたパンダは誰?名前と年齢は?

日本国内で飼育された歴代のパンダの中で、最も長生きしたことで知られているのは、アドベンチャーワールドで長く活躍したオスの「永明」です。

永明は、日本国内の歴代最高齢記録を更新し続け、30歳で中国に返還されました。

その後、2025年1月に32歳でその生涯を閉じたと記録されており、非常に長寿なパンダでした。

永明の功績は長生きしたことだけではありません。彼は16頭もの子どもの父親となり、「浜家」の繁栄の礎を築きました。

その長寿と驚異的な繁殖能力は、アドベンチャーワールドの飼育技術の高さと、深い愛情の賜物と言えるでしょう。

 

Q. ジャイアントパンダとレッサーパンダは違う種類?

多くの人が名前に「パンダ」とつくことから混同しがちですが、ジャイアントパンダとレッサーパンダは、生物学的に全く異なる種類の動物です。

見た目も生態も大きく異なり、共通の祖先からかなり早い段階で枝分かれしたと考えられています。

アドベンチャーワールドの園内マップを見ても、ジャイアントパンダが暮らす「パンダラブ」や「ブリーディングセンター」といった希少動物の研究施設と、レッサーパンダがいる「ファミリー広場」は明確に別のエリアに分けられています。

このことからも、両者が生物学的に全く異なる動物として扱われていることがよく分かります。

 

まとめ:歴代パンダが紡いできた日中友好の物語

1972年にカンカンとランランが日本の土を踏んで以来、歴代のパンダたちは単なる動物園の人気者という存在にとどまらず、日本と中国という二つの国を結ぶ、温かく力強い友好の架け橋として、非常に大きな役割を果たしてきました。

その関係性は、当初の国交正常化を記念した「贈与」から、現在では種の保存という地球規模の課題に共に取り組む「国際共同研究」のパートナーへと、時代と共に深化しています。

上野動物園で生まれ育ち、日本中に感動を与えたシャンシャンや、アドベンチャーワールドで世界一の大家族を築いた「浜家」など、日本で生まれたパンダたちは、私たちにとって単なる動物ではなく、まるで家族の一員のような存在です。

彼らの誕生に歓喜し、成長を見守り、そして中国への旅立ちを涙と感謝で見送る。

この一連の経験を通じて、私たちは多くのことを学びました。

2025年6月の「浜家」全頭の返還は、日本のパンダ史における一つの時代の終わりを告げる出来事でしたが、彼らが残してくれた数えきれない思い出と功績は、これからも未来の世代へと確かに紡がれていくことでしょう。

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